
どうも!らふ男です!
30代になり、やっと仕事も軌道に乗ってきた気がしている今日この頃。
これまでの人生をちょっと思い返してみました。
知り合いから「よくここまで生きて来れたね笑」と言われたのがきっかけです。
ちょっと変わった人生を歩んできたからかも・・・
ブログも見てくれる人が増えてきたので、少し僕のこれまでについて紹介していきたいと思います。
小学校時代|不登校、ひきこもりになる
学校の授業で先生が黒板に書いたことノートに書く理由がわからない
通っていた小学校は1クラス30人ほどで、僕は一番後ろの席に座っていました。
当たり前の光景ですが、授業の時先生が黒板に書いたことをノートに書くことが多いですよね。
これがわからなかったんです笑
「教科書に書いてあることをノートに書き写す意味がわからないし、教科書に書いていないことも生徒の1人が代表して書いてコピーすればいいじゃん」が理由です。
定期的にノートのチェックをする先生で、僕のノートを見てびっくりしたと思います。
ほとんど白紙なので笑
呼び出しからの説教確定ですね。
ホント扱いにくい生徒だったと思いますよ。
当時の僕は勉強以外でも先生が言ったことをその通りに、みんなと一緒にやらないといけないのが嫌でしょうがありませんでした。
クラスでも浮いた感じになっていて、仲良くしてくれる友達もいましたがちょっとしたイジメをしてくる人もいました。
僕の中でどんどん学校に行く理由がわからなくなり、仮病など何かしら理由をつけては学校に行かなくていいように努力しました。
両親としてもなんとか学校に行かせたい気持ちだったと思います。
半ば強制で連れていかれたり、父親が僕とランドセルを家から出して鍵を閉められたことも笑
昼休みに学校から脱走
ある日、給食後の昼休みに校庭で遊んでいました。
チャイムがなって他の生徒は教室に戻る中、僕は戻るのがどうしても嫌で学校から脱走。
最初は学校の近くで隠れていいましたが、何人かの先生が校門から出てきて探し始めるのが見えました。
「捕まりたくない」と「困らせてやりたい」の両方の気持ちが出てきて、どこか遠くに行こうを考えました。
けれど小学生なのでお金を持っているわけでもなく、どこに行こうか考えました。
思いついたのが10kmほど離れたところにある、以前祖父母が住んでいた家です。
当時祖父母はその家から引っ越して空き家になっていましたが、僕はその家が大好きでどうしてもそこにいきたくなりました。
探している先生から隠れながらの移動。
「冒険しているみたいで楽しい」
2時間ほど歩いて辿り着きました。
家の鍵は閉まっていて入ることもできず、家の前で体育座りしてこれからどうしようかと考えていました。
どれだけ時間が経ったかは覚えていませんが祖父母の家に向かって走ってくる近所のおばちゃんの姿が見えました。
「らふ男くん!?」
そのおばちゃんは個人商店をしていて、祖父母がまだ住んでいる時によく買い物に一緒に行って可愛がってもらってました。
「おばあちゃんから連絡をもらって、もしかしたらここにいるかもって言われて・・・。おばあちゃんから自宅にも連絡してもらって今お父さんが迎えに来てくれているからね。」
ばぁちゃん恐るべし・・・
そう思うのと同時にちょっと安心しました。
正直学校から脱走したのはいいものの、これからどうなるんだろうと不安な気持ちも出てきていたので「見つかってよかった」と思いました。
さっきまで「捕まりたくない」とか「冒険しているみたいで楽しい」とか思っていたのに笑
さすがに両親もこれはもうしょうがないと思ったのか、学校に行かないことを許してくれました。
小学校4年生 不登校ひきこもりの生活
実はこの頃の記憶はあまりありません。
学校に行かなくなってとにかくヒマだったのは覚えています。
もう一つ覚えているのがドラゴンボールの映画を観ていたことです。
当時まだビデオ(VHS)だったのですが、映画を観て巻き戻して同じ映画をもう一度観る、これを繰り返していました。
どうしてそんなことをするのか自分でもわかりませんし、やりたくてやっているわけでもありません。
そんなに観ていたらストーリーも覚えますし、セリフも一言一句まで覚えていました。
そして一番苦しい時間でした。
でもやらずにはいられなかった。
あと両親にどこかに連れて行ってもらったりしているのも覚えています。
でもどこに連れて行ってもらったのかをあまり覚えていません。
そんな感じの生活をしていました。
ただちょっと変わった不登校ひきこもり児でした。
不登校になる少し前からスポーツ少年団のバスケ部に入団していました。
学校に行かなくなってからもバスケには通いました。
同じ学校の生徒からは「学校に来ていないのにどうしてバスケだけ来ているの?」と聞かれたりもしましたが、監督やコーチも理解してくれて「不登校でバスケ部のひきこもり」が完成しました。
まぁ常時ベンチ要員でしたけど笑
今思うと当時「ひきこもり」という言葉が出始めで学校に行くのが当たり前の時代、いろんな人が理解して支えてくれたんだなと思います。
中学校年代|ひきこもり施設の利用や両親の離婚
施設を利用し始めて自分自身を知れた
中学生になりもしかしたら学校に行けるかもと思って通い始めました。
でもやっぱり勉強する意味わからなかったり、集団行動が苦手ですぐにまた不登校に・・・。
そのあとひきこもりや不登校の人を支援する施設に入りました。
そこには僕と同じく学校や社会に出るのが難しい人たちが集まっていて、学校に行けていない自分がおかしいんじゃないかって気持ちが少しラクになった気がします。
施設では「これをやりなさい」などとは言われず、とにかく自分が興味を持ったことをやってみることができる場所でした。
僕はとにかく少しでも興味を持ったことを手当たり次第やってみて、自分は興味を持ったことには没頭できるのだと初めて気がつきました。
でも施設でも問題が・・・。
父親は怒るとすぐ手が出る人で、ひきこもっている時の一番身近な人が親だったので自分の思い通りに行かない時は手を出せばいんだと思っていたんだと思います。
施設の人がその度に僕と向き合って話をしてくれて、少しずつ言葉でコミュニケーションを取ることができるようになりました。
父親が母親をボコボコにしてそのまま離婚
施設を利用し始めて少し経った頃のことです。
仕事の部署が変わって慣れない業務でイライラしていた父親が母親の言ったことにキレてしまい、これまで以上の暴力を振るいました。
母親は僕と弟を連れてそのまま家を出ました。
そしてそのまま離婚。
母親と弟と3人、新しい生活が始まりました。
これまで僕と弟を育てるために専業主婦をしていた母親は新しく仕事を始めました。
10年近くブランクがあったのでかなり大変だったと思います。
でも中学生の年齢の僕にはその大変さは当時まだ理解することはできませんでした。
学校から脱走した僕を見つけたばぁちゃんがお金の大事さを教えてくれる
施設では年に一回国内を旅行するイベントがありました。
その年はフェリーで行く北海道旅行で、参加費は10万円。
でも両親が離婚したばかりでお金がないことを知っていた僕は母親に話すことができませんでした。
アルバイトをしようと思いましたがまだ14歳だったのですることもできず、行けないんじゃないかと思うと気分は最悪。
お金がないとできないことがあるという現実を生まれて初めて突きつけられました。
なんとかして旅行に行きたいと思っていると施設で有償ボランティアをやっていることを知りました。
施設に依頼された草取りや引っ越しの作業をすると少しお金をもらえます。
もらえると言っても1日働いて2,000〜3,000円程度。
当時の最低賃金でもかなり下回る時給でした。
でもどうしても行きたかったので施設の人に頼んで1日でも多く入れてもらい、もらったお金をコツコツと貯めていきました。
その頃学校から脱走した僕を見つけたばぁちゃんとじぃちゃんとたまに会うようになっていました。
ばぁちゃんに旅行に行きたいと思っていることや、そのために有償ボランティアで頑張っていることを話すと「そっかぁ・・・頑張ってるね!」と1言。
正直もしかしたら旅行のお金を援助してくれるんじゃないかと期待していました。
そんな甘くはなかった笑
でも有償ボランティアで少しずつお金が貯まってきていたので「まぁしょうがないか」と切り替えて仕事をする日々を続けました。
旅行の1ヶ月前くらいにやっと目標の10万円を貯めることができました。
10万円貯めるのに半年くらいです。
もらえる金額が金額なのでかなりかかりました。
でも・・・この10万円は移動や宿泊などお金だけで、北海道で遊んだり買い物をするお金はありませんでした。
「それでもいい!」
どうしても行きたかった北海道旅行、お金をかけなくても楽しみ方はいろいろあるしなんとかなる。
お金が貯まったことをばぁちゃんに報告しました。
お金が貯まったのがめっちゃ嬉しかったのでかなりテンションが高かったと思います。
するとばぁちゃんが
「そのお金は北海道で楽しむために使いなさい。経験のために使うお金ほど大切なモノはないからね」と10万円入った封筒を僕に渡しました。
ラッキー!!
とは思いませんでした。
これまで旅行のために有償ボランティアの仕事をやってきて、お金の大切さや稼ぐ大変さが身に沁みていたからだと思います。
ばぁちゃんが渡してくれた10万円はじぃちゃんとばぁちゃんが頑張って働いて貯めたお金なんだと理解できました。
そしてばぁちゃんが言ってくれた「経験のためにお金を使う」という言葉が、今後の僕にとって大きな行動理念になりました。
高校年代|自分の夢ができて勉強を本格的に始める
あれほど嫌いだった勉強が好きになってしまう
「勉強する意味がわからない」
そう思ったことがある人は多いと思います。
理由は「勉強してなんの意味があるの?」「社会に出て役にたつの?」などですね。
でも施設で行っている学習支援の先生と出会って、勉強するどころか勉強が好きになってしまいました笑
その先生が教えてくれたことは大雑把に言うと
「勉強はしなきゃいけないものではなくて、楽しむもの。歴史は人の物語、知識は難しいことを簡単できるようにするためにめんどくさがりの人が考えた生活をラクにするもの。歴史を知っていれば昔の人がしてきた失敗をしなくなるし、知識があれば簡単になって人生ラクになるよね。」って感じです。
そして自分の中に出てきた「なぜ?」「どうして?」に向き合うこと、これが大切だと教えてもらえました。
「やりがい」と「お金」についてバトル
同時期に施設を利用しているKさんという人がいました。
彼はひきこもりになって施設に通い始めましたが、入ってすぐに勉強を始め大学を出たら大手企業に入ってたくさん収入を得たいという考えの人でした。
僕はどちらかと言えば生きていくのに大切なのは「お金よりもやりがい」だと思っていました。
一緒に勉強していく中でちょっとしたことから「やりがい」と「お金」ついて言い争いになりました。
その中にKさんに言われたことに「確かにな」と思ってしまったのが
「やりがいとお金のどちらがいいのかを知るのにはお金を稼いでからじゃない?」という言葉でした。
その時は「そんなことねぇ!」って突っぱねましたが、僕は納得してしまっていました。
この会話が後々僕の働き方に大きな影響を与えます。
Kさんにはホント感謝してます。
ちなみに今でも交流があって定期的に遊んでますよ。
海外を旅する夢とばぁちゃんの死
勉強を始めてからちょっとずつ本を読むようになりました。
その中の1冊に高橋歩著の「LOVE&FREE」と「世界一周しちゃえば?」という本です。
高橋歩さんの本は実際に旅をした時の写真とキャッチーな文章が書かれている読みやすい本です。
もともと海外に少し興味を持ってはいましたが、この本を読んで自分も旅をしてみたいと思うようになりました。
もう一つきっかけになったのはあるテレビ番組を観ていた時のことです。
詳細は覚えていませんが映像だけはハッキリと覚えています。
ある貧しい国では食事もろくに食べることができず、ガリガリに痩せてお腹だけぽっこりとしたアフリカ系の子供がどんな生活をしているのかというものでした。
インタビュアーがボロボロのシャツを着た子供にインタビューをしている時の映像で、その子供の後ろでチノパンとボタンシャツを着た男の人が携帯で電話をしている姿が目に入りました。
僕はその光景に疑問を覚えました。
貧しい国でも裕福な人と貧しい人がいることは理解できていました。
けれどもテレビでは「この国の人々はその日のご飯も手に入るかわからない」など、まるでその国全体がそんな暮らしというような演出をしていました。
その時僕は「もしかしたらテレビの画面の外側では違った光景があるのかもしれない」と感じ、その外側を見てみたいと強く思いました。
そして20歳になったら旅に出ようと思うようになりました。
海外に行こうと心に決めた矢先、ばぁちゃんから少し話があると言われ会いに行きました。
「実はガンになってもう治ることはない」
学校に行かなくなった時や両親が離婚した時も僕を支えてくれたばぁちゃんは、治ることのない病気になっていました。
正直その言葉を聞いた時に何も感じることができませんでした。
理解できないが正しいかもしれません。
なぜか僕の口から出た言葉は「ばぁちゃん、おれ海外を旅したい!」でした。
ばぁちゃんは「あなたは自分の好きなように生きなさい。あなたが今まで経験してきたこと、これから経験することはきっと誰かの役になるから。やりたいようにやりなさい。」
ばあちゃんは僕が17歳の時に亡くなりました。
高卒認定をとって大学へ
最終学歴が中卒だった僕は学習支援の先生のおかげで高卒認定試験(高等学校卒業程度認定試験)に合格し大学に進学することにしました。
勉強していた時期が短かった僕は学力が不足していたので、受験勉強はかなり頑張りました。
6月までは学習支援施設で朝10時から夜の9時くらいまで勉強。
それ以降は予備校に通いながら朝8時から寝るまで勉強しました。
「勉強ってなんの意味があるの?」と考えていた僕には考えられないことです。
でも自分の中に知識が入っていくことが楽しくて続けることができました。
勉強はしなきゃいけないものではなくて、したいからするものだからです。
それでも勉強に行き詰まることもありました。
当時訳あってじぃちゃんばぁちゃんの家に住んでいました。
その時ばぁちゃんは病院にいて、じぃちゃんも付きっきりで看病していたので基本的に家では1人でした。
定期的に母親の妹のおばちゃんがご飯を作りに来てくれていました。
勉強に行き詰まっていた僕は慰めて欲しいあまり「勉強大変なんだよね。もう辞めようかな」と言いました。
返ってきた答えは「応援しているから頑張りな」なんてものではなく「じゃあ辞めたら?」でした。
ばぁちゃんの娘だってこと忘れてました笑
さすがおばちゃん。
でも頑張ろうって気持ちになれました。
努力も実ってなんとか大学に進学することができました。
4月から学生生活スタートです。
次回 大学生活と海外放浪の旅
小学生のひきこもり時代から大学進学までの話を書いてきました。
こうやって書いてみるといろんな人に支えられながら生きてきたんだなと思います。
父親、母親、じぃちゃん、ばぁちゃん、おばちゃん、施設の人や先生など他にもたくさんの人が僕のことを大事にしてくれました。
この記事では書きませんでしたが両親とは上手く関われない時期もありました。
今では一緒にご飯食べたりするくらいいい関係です。
次回は大学生活と海外を放浪した時のことを書こうと思います。
ここまで読んでくれてありがとうございます。



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